底地の歴史

底地の歴史

底地とは古くは大名(領主)が領民から税金を安定して徴収出来るように定めた制度から始まり、明治時代に西洋から民法が導入され政府の税制を安定させるため地租改正によって所有権を認め所有者=納税義務者として地主が誕生しました。その後幾多もの時代背景に影響を受け元々弱い立場であった借地人の権利を保護する法律が次々と制定され現在に到ります。歴史的な背景や法律制定の流れをまとめてみました。

明治8年
地租改正 (約130年前)

土地制度と税制を改革。現物貢租(米等)から金納(現金)になり、高額な税額により、土地を所有するよりも、土地を借りる借地が増える。よって政府の財政基盤が確立し、地主・小作人の関係も強化された。

明治27年~明治37年
日清・日露戦争

戦争需要によって、農村部から都心部への人口流入が進みました。
それにともない土地の需要が増し、土地価格が上昇。権利の弱かった借地権者は立退きを迫られ、あちこち で無理な立退きが横行しました。

明治42年
建物保護法制定(約100年前)

持家2割に借家、借地・8割の時代に。「建物保護ニ関スル法律」が制定され、以前は、地主の権利が強く、土地を第三者に売却してその買主である第三者から退去を迫られると借地人は、退去せざるを得ない状態でした。 この法律が制定された事により、建物登記をすれば第三者にも対抗できるようになり借地人の権利が守られる事となる。

大正10年
借地法・借家法制定(約80年前)

借地上に建物がある限り、継続的に借地契約を更新できるように定めた為、地主から契約更新を拒む事がかなり難しくなる。その為、借地人は何度も契約を更新する事が可能となる。

大正12年~大正13年
関東大震災 借地借家臨時処理法

関東大震災は1府6県にわたり約47万戸の住宅が焼失。家賃の高騰もあり、10万人以上の人がバラックで生活。政府は円滑な震災復興を進めるため、バラック建物も借地権と認める。

昭和12年~昭和14年頃
住宅飢饉 地代家賃統制令(約70年前)

日中戦争の開戦により戦争需要で、さらに都心部への人口流入が進み、土地価格は上昇、貸家の空室率が低下する。よって地代や家賃が高騰しないよう地代家賃統制令が施行される。

昭和13年(1933年)~昭和14年(1934年)
国家総動員法の一つである地代家賃統制令される。

地代と家賃の一方的な値上げが規制されました。

昭和16年頃
借家法改正「正当事由制度」

立退きが社会問題になり、政府がこれを抑制する動きをとりました。簡単に明渡しを認めないように、明渡し(更新拒絶)においては、正当な理由を添えなければならないと法改正を施したのです。いわゆる「正当事由」です。この法改正によって賃借人に対する明渡し(更新拒絶)が困難になりました。

昭和41年
借地法改正(借地非訟事件手続きの導入)

高度成長期の頃から土地の価格は急騰し、土地神話が形成されてくると、地主が土地を貸すことについての不利益が大きくなり、地主が新規の借地契約を発生させることはほぼ無くなりました。
地主は借地人への最後の抵抗手段である、更新の拒否や借地契約条件変更の拒否、第三者への譲渡の拒否により、地代値上げや更新料値上げなどを要求するようになります。

平成4年
借地借家法制定

賃借人過保護と言われるように、普通借地権においては、地主と借地権者との間に認識の齟齬が生じ、もはや問題とまで言われるようになってしまいました。
そこで、地主に不利とならない「定期借地権」が創設されました。これは期間の定めによって借地契約が終了するもので、「返らずの土地」をなくすことで、借地の普及を目指すことが目的となっています。